池袋暴走事故 真菜さんの父親の上原義教さん、意見陳述全文

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こんにちはカリスマです。

 

東京・池袋で平成31年4月、乗用車が暴走し、松永真菜さん=当時(31)=と長女、莉子ちゃん=同(3)=が死亡した事故の15日の東京地裁の公判で、真菜さんの父、上原義教さん(63)が行った意見陳述は次の通り

 

1、はじめに

私は松永真菜の父です。真菜は5人きょうだいの三女として、昭和62年9月13日に沖縄県那覇市で生まれました。長女は真菜より6歳上、二女は3歳上、四女は2歳下、末っ子の長男は9歳下で、私と妻と合わせて7人家族、莉子は私にとって3人目の孫です。二女と妻を病気で亡くしましたが、娘たちは結婚し、孫たちが生まれ、お互い支え合ってこれまで生きてきました。大事な二人をまさか事故で失うとは思っていませんでした。真菜や莉子がどんな人だったか、私にとってどれほど大事な存在だったか、突然いなくなってどんなに辛いか、気持ちを述べたいと思います。

2、私自身のこと

私自身は家庭環境に恵まれず、家族の愛情を知らず、辛い少年時代を過ごしました。しかし、18歳の時に妻と出会い、優しくて可愛らしい人柄にひかれて結婚し、常に、自分の家族が最優先、絶対に温かい家族にしようと考え、生きてきました。妻には婦人科系の病気があったので、子供は出来ないと思っていたのに、5人もの子供に恵まれました。7人家族、裕福ではありませんでしたが、みんなで助け合って賑やかに、笑顔の絶えない家庭でした。私は仕事を終えて家に帰るのがとても楽しみで、家族と過ごす時間を楽しみに毎日を過ごしてきました。この家庭を守るために、自分の全てをかけて生きていこうと、いつも心の中で思っていました。

 

 

3、真菜の人柄について

真菜は、仕草から性格まで、私にそっくりでした。幼少期、とても恥ずかしがりやで、初対面の人と会うと、母親の後ろに隠れてしまうような子供でしたが、とても私になついていて、仕事に行く時も私のあとを追いかけてきたことを思い出します。

5人きょうだいの真ん中で、上と下に挟まれて遠慮がちではありましたが、10代の頃から家のことを色々と手伝ってくれ、妹や弟の面倒をよくみる家族思いの娘でした。スポーツが好きで、中学校ではハンドボールや陸上で代表になり、活動的な中学校時代を送りました。高校では、友だちもたくさんでき、楽しく充実した3年間を送っていました。

また、真菜は母親に似て頭のいい子でした。成績も優秀で、高校の先生から、「数学が得意だから、数学の先生になれる学校に進学させてあげて」と言われていました。しかし、真菜は、家庭の経済的事情を酌んだようで、自ら希望して歯科衛生士の専門学校に進学しました。そこでも成績優秀で、学費を抑えることができ、卒業後は歯科衛生士として日々真面目に働いていました。

それでも、真菜には「自分は優秀なのだ」と偉そうにするようなところは全くなくて、本当に控えめで謙虚な性格でした。人とのつながりをとても大事にし、人を悪く言うことがなく、友達が多くて、学校の先生からも信頼がありました。私は真菜を悪く言う人を見たことがありません。

一方で、私に似て頑固な一面もありました。きょうだいがたくさんいたので、誰かが悪いことをすると連帯責任のように全員が怒られることがあったのですが、そいうことに納得がいかなくて、「私は悪くない」とハッキリと意志を伝えることもありました。そういう面も、真菜の精神的な芯の強さだったのかと思います。自分が決めたことは最後までやり通す子でした。

 

 

4、真菜の結婚について

小学校の教員だった二女が2009年5月、25才という若さで白血病のためになくなりました。当時、真菜は21歳でした。5人の子どもたちの中で、二女がリーダーシップを取っていたような面があり、私たち家族は深い悲しみに包まれました。何よりも家族を優先して守っていくのだ、と常に思っていた私にとって、まだ25歳の娘が親より先に亡くなったという事実は、想像を絶するような辛さでした。真菜は二女ととても仲が良かったので、真菜自身も相当なショックを受けていたはずですが、自分のことよりも私のことをとても心配して気遣ってくれていました。

ですから、真菜の結婚については、当初、反対の気持ちでした。二女を亡くしていましたし、真菜は3番目の娘だけど、私によく似ていてとても優しく接してくれていたので、側にいてほしかったのです。私の年代からすると、「本土は遠い」というイメージもありました。

でも、拓也君に会って話をしてみると、拓也君はとてもいい子で、優しい人だとよく分かったし、私の妻と拓也君のお母さんが高校の同級生だったことが分かり、ご縁を感じたので反対しませんでした。真菜は、「将来的には沖縄に帰りたい」「東京みたいなところで子育てしたくない」と言っていましたが、私は、「拓也君は長男だから、よく話をするように」と言い含めて、送り出しました。

 

 

5、莉子が生まれてから

真菜が結婚して千葉に行ってから、真菜は月に1、2度は手紙をくれ、電話はしょっちゅうかけてくれました。

莉子の出産のため、沖縄に里帰りしたので、私は生まれた日に莉子に会うことができました。生まれた時から真菜によく似ていて、本当に嬉しい気持ちでいっぱいでした。

しかし、莉子が生まれて少ししてから、最愛の妻が突然、くも膜下出血で亡くなりました。私の幸せな人生は、妻との出会いから始まっており、色々なことを妻に頼りっぱなしでしたので、その時の喪失感は自分でもどうすることも出来ず、ただただ辛くて落ち込みました。

子どもたちはそれは分かっていましたので、私のことを心配してくれて、沖縄から離れた真菜は私にスマホを買ってくれました。おかげで、莉子とは毎日のようにテレビ電話で話をし、月に1回は真菜から写真や手紙をもらい、莉子の成長を見ることができました。真菜は年に3、4回は友達の結婚式などで莉子を連れて沖縄に帰っていたので、東京と沖縄で離れていたのに、莉子は私にもよく懐いてくれて、私のことを「じじ」と呼んでいました。

そのうち、拓也君と真菜は、沖縄で生活することを決めたとのことで、真菜はパティシエである四女と一緒にカフェをやろうと考えていたようでした。私は中華料理店の厨房で働いていたことがあるので、そこで料理も出して、皆で暮らせる日を楽しみに毎日を過ごしていました。

 

5、真菜・莉子と最後に話した時のこと

最後に真菜と莉子とビデオ電話で話したのは、事故の数日前のことでした。5月に2人で沖縄に来る予定になっていたので、その時に着るためのセパレートの水着を、莉子が画面越しに見せてくれました。その際、莉子が「かき氷を食べたい」と言ったので、莉子の食にはとても厳しかった真菜に、「年齢とともに少しずつあげていくよ」と言うと、真菜は了解してくれて、「かき氷機ある?」と聞いてきました。そこで、私はしばらく使っていなかったかき氷機を探し出して、画面越しに莉子に見せると、莉子はとても楽しみにしている様子でした。それが、真菜と莉子と直接話をした最後になってしまいました。

 

 

6、事故の日から葬儀まで

事故のことは、拓也君から14時頃に電話があって知りました。拓也君は泣きながら「これから病院に向かいます」と言っており、私は着替えの準備もせず、急ぎ上京のため移動を始めました。その途中で再び拓也君から電話があり、真菜と莉子が亡くなったことを知りました。私は、直接二人に会って確認するまではとても信じられないという気持ちでした。当日のうちに東京に着きましたが、真菜と莉子の遺体は警察署にあったので、二人に会えたのは翌日でした。

莉子は損傷が激しすぎて、ご遺体を見られませんでした。その後、私自身おかしくなったような感じで、葬儀の時も夢見ているような感覚でした。皆が帰った後も、私と拓也君は残り、一緒に夜通し泣きながら、二人に「痛かったね」と語りかけたりしました。私は莉子ちゃんの手を握って「ごめんね。じじが代わってあげられなくて」と謝りました。二人が別々の棺だったのが可哀そうでした。真菜は母親に似て優しい子で、自分のことよりも誰かのために、というのが強い子でした。育児日記も毎日書いていて、沖縄に帰っている時も夜遅くにテーブルに座って、その日の出来事を事細かに驚くほど丁寧に書いていたものです。ですから、真菜も莉子も別々で寂しいだろう、と心が痛みました。

 

 

7、事故後の苦しみ

事故後、東京での街頭署名活動のため、私も上京しました。まだ気持ちの整理はついていませんでしたし、東京は殺伐としていいイメージがなかったのですが、私にも悔しい気持ちがあり、拓也君が一生懸命やっているから、ちょっとでもお手伝いできたら、と思ったからです。でも、たくさんの人が来てくれて、他人のことにこれだけ寄り添ってくれて、泣いたり語り掛けてくれた人もいて、真菜と莉子をこんなに思ってくれて、行ってよかったと思いました。そして、真菜もそんなに悪いところに住んでいたわけではないことが分かりました。私は、人前に出ることがとても苦手なのですが、街頭署名に参加して良かったと思っています。その後、沖縄でも街頭署名を行い、多くの方から署名をいただいて心から感謝しています。

 

 

8、裁判について

裁判の度に上京して、被害者参加していますが、毎回、何のために上京しているのか? と思ってしまいます。誰が悪いのか分かっているにも関わらず、加害者に寄り添っている気がするのです。まさかこんな裁判になるとは思っていませんでした。いったい誰が裁かれているのでしょうか。私たちが裁かれているような気がしますが、我慢しながら進んでいくしかありません。

被告人の弁護人に対しては、本当にそうだと信じて弁護しているの? と聞きたいです。私は車の整備士をしていたことがあり、車のことが分かるだけに余計に腹が立ちます。法律の素人が聴いていても、あれ? と思うことがあります。

被告人質問を聞いて、とても落ち込みました。あの人には何を言ってもダメなのかな、と。こんなに苦しんでいるのに、私たちの事故から何年かの気持ちをこれっぽっちも考えてないと感じました。反省の色がなく、まだ車のせいにしています。被告人質問の後、夜も眠れず、何日も身体が硬直したようになり、そんな体験は初めてでした。未だに気持ちも落ち込んだままです。それでも2人のために一生懸命やらないと、と気持ちを奮い立たせています。

 

 

9、今、真菜と莉子について思うこと

事故後に真菜の顔や手の傷を見て、莉子ちゃんの小さなご遺体も目の当たりにして、本当に苦しかったです。でも、不思議なことに、あんな2人を見たのに、まだ信じられないというか、戻ってきそうな感じもしています。二女が亡くなった時は、医師から病状の説明を受けたりしていたので、お別れする心の準備がありました。しかし、毎日のように電話で話していて元気いっぱいで、もうすぐ沖縄に戻ってくるはずだった真菜と莉子が、こんな形で突然亡くなったことは、今でもとても受け入れることができません。

真菜は、けっこう耳に残る声をしていたせいか、玄関をあけると真菜の声が聞こえたような気がすることがあります。辛くて全部片づけていた写真を、意見陳述のために出してきて、見たからかもしれません。親思いで、小さい頃から一貫して優しい子でした。妻と二女を亡くして、私を一番心配していた真菜が私より先に逝ってしまうなんて。愛する妻、娘、孫まで亡くなって、本当に神様がいるならなぜこんなことが起きるのか。真菜と莉子を返してくれ、というのが一番の気持ちです。

 

 

10、処罰感情について

私には、沖縄で娘たちとカフェをやろうという夢があり、それを実現しようとしていた矢先でした。真菜や莉子だけでなく、私たち遺族の夢も奪いました。私が今、心配なのは拓也君のことです。私は妻と娘を亡くす辛さを知っており、拓也君は一度に亡くしてしまったのですから。

飯塚さん。あなたも人の子なら、車のせいにはせず、自分が犯した罪に向き合ってください。あなたのお子さんやお孫さんに同じことが起きたら、反省もしない加害者を許すことは出来ますか?

被告人には刑務所に入ってほしいです。刑務所の中で反省する時間を持ってほしいからです。どんな処罰になっても真菜や莉子も戻ってきませんが、せめて反省だけでもしてほしい。それが私の願いです。以上

 

 

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